Friday, February 12, 2010

売買される言葉


そうです、あなたの持ち時間をいっぺんに使わなければよいのです。まず半分の時間休憩する。残りの半分の時間を暇つぶし用にとっておく。次のときには残っている暇つぶし用の時間の半分だけを使って休憩する。そしてまた残りの時間を暇つぶし用にとっておく。そんなふうに休憩時間を使うときはいつでも半分だけ使うのです。この方法を続けていけば、あなたは全部の時間を使い切ってしまうことはできないはずだ。

「時間です、どうぞお早く願います。」


あなたは眼鏡をはずそうとする仕種をする。その頃、あなたの視力は眼鏡を必要としていなかった。目の前にある何かをとり除こうとするこの仕種が、あたかもまぶたを開くことによって達成する行為に対応するかのように、あなたの目ざめを構成する。

眼鏡をはずすことは、眠りからさめること。しかし眠りにはいるためには、眼鏡をはずさなければならない。一方、眼鏡をはずすことが眠りからさめることであるなら、眼鏡をつけることは眠りにはいることであるはずだ。しかし眼鏡をつけるのは眠りからさめたあとに行なうことなのだ。そしてじっさい、眼鏡をつけるように眠りにはいることはできない。あなたは眼鏡をはずす。それからまた眠りのなかで眼鏡をはずす。あなたは眠りのなかで眼鏡をはずす。それからまた眼鏡をはずす。

一度ならず二度までも、しかしある意味では二度寝だけが存在している。あなたは眼鏡をはずそうとして眼鏡をはずそうとする。しかしあなたが眼鏡をはずした瞬間、あなたの目が覚める。仕方ない、今度はしくじらない。あなたは眠ろうとする。しかし眼鏡をつけることはできない。なぜならあなたはすでに眼鏡をかけているから。仕方ない、今度はしくじらない。あなたは目を覚まそうとして眼鏡をはずそうとする。しかしあなたが眼鏡をはずした瞬間、あなたの眼鏡がはずれる。

「時間です、どうぞお早く願います。」


二度ないことは一度もない、一度あればかならず二度になる。あなたは目覚ましをかけるとかならず、設定した時刻より前に目が覚める。予定通りに、ベルが鳴ってから起きるのではない。ベルが鳴る前に起きるのです。だから時計がいまこの場所になくても、ただ、目覚ましをセットするという行為さえあれば、あなたは予定より前に起きることができるでしょう。

あなたは目覚ましをかけないとかならず、設定した時刻より後に眠りにはいる。ベルが鳴らないから眠るのではない、予定なしにベルが鳴った後に眠るのです。だから時計がいまこの場所にあっても、ただ、不意になる目覚ましを待つという行為さえあれば、あなたは眠ることができるでしょう。眠りはそもそも、寝入りに先立ち、目ざめに遅れてつねにあったのだ。

判断がおぼつかない頭で、あなたが自分の状態はとりかえしがつかないと判断したとき。気づいたときにはもう起きている。気づかなかったときにはもう眠っている。だから、目ざめに関する痕跡は何も見つからないし、寝入りに関する予想もどこにも見あたらない。

「時間です、どうぞお早く願います。」

Tuesday, June 23, 2009

グェルチーノ(ジョバンニ・フランチェスコ・バルビエリ)二点

Guercino (Giovanni Francesco Barbieri) 1591-1666

《Joseph and Potiphar's Wife》1649

《Return of the Prodigal Son》1619

Friday, June 19, 2009

滞時空間


《The Triumph of Death》 (detail) Fresco in the Camposanto, Pisa 14c


William Blake《The Grave, a Poem by Robert Blair
Plate 6 : The Soul hovering the Body reluctantly parting with Life》1808

Friday, June 12, 2009

分身分解


Heinrich Anton M.《Two Faces》


Heinrich Anton M.《Three Woman in a Wheelbarrow》


Jules Dou《William Tell》


Clarence Schmidt

Sunday, October 12, 2008

顔の相似[引用]

ある時電車で子供を一人連れた夫婦の向かい側に座を占めて無心にその二人の顔をながめていたが、もとより夫婦の顔は全くちがった顔で、普通の意味で少しも似たところはなかった。そのうちに子供の顔を注意して見るとその子は非常によく両親のいずれにも似ていた。父親のどこと母親のどことを伝えているかという事は容易にわかりそうもなかったが、とにかく両親のまるでちがった顔が、この子供の顔の中で渾然と融合してそれが一つの完全な独立なきわめて自然的な顔を構成しているのを見て非常に驚かされた。それよりも不思議な事は、子供の顔を注視して後に再び両親の顔を見比べると、始め全く違って見えた男女の顔が交互に似ているように思われて来た事である。

 ▶寺田寅彦「自画像」(1920)

Friday, April 25, 2008

方向感覚(行方不明)[引用]

私の通る道筋は、いつも同じように決まっていた。だがその日に限って、ふと知らない横丁を通り抜けた。そしてすっかり道をまちがえ、方角を解らなくしてしまった。(中略)

私は道に迷って困惑しながら、当推量で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻ったあとで、ふと或る賑やかな往来へ出た。それは全く、私の知らない何所かの美しい町であった。街路は清潔に掃除されて、鋪石がしっとりと露に濡れていた。どの商店も小綺麗にさっぱりして、磨いた硝子の飾窓には、様々の珍しい商品が並んでいた。(中略)かつて私は、こんな情趣の深い町を見たことがなかった。一体こんな町が、東京の何所にあったのだろう。私は地理を忘れてしまった。しかし時間の計算から、それが私の家の近所であること、徒歩で半時間位しか離れていないいつもの私の散歩区域、もしくはそのすぐ近い範囲にあることだけは、確実に疑いなく解っていた。しかもそんな近いところに、今まで少しも人に知れずに、どうしてこんな町があったのだろう?

私は夢を見ているような気がした。それが現実の町ではなくって、幻燈の幕に映った、影絵の町のように思われた。だがその瞬間に、私の記憶と常識が回復した。気が付いて見れば、それは私のよく知っている、近所の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。(中略)何もかも、すべて私が知っている通りの、いつもの退屈な町にすぎない。一瞬間の中に、すっかり印象が変ってしまった。そしてこの魔法のような不思議の変化は、単に私が道に迷って、方位を錯覚したことにだけ原因している。いつも町の南はずれにあるポストが、反対の入口である北に見えた。いつもは左側にある街路の町家が、逆に右側の方へ移ってしまった。そしてただこの変化が、すべての町を珍しく新しい物に見せたのだった。

その時私は、未知の錯覚した町の中で、或る商店の看板を眺めていた。その全く同じ看板の絵を、かつて何所かで見たことがあると思った。そして記憶が回復された一瞬時に、すべての方角が逆転した。すぐ今まで、左側にあった往来が右側になり、北に向って歩いた自分が、南に向って歩いていることを発見した。その瞬間、磁石の針がくるりと廻って、東西南北の空間地位が、すっかり逆に変ってしまった。同時に、すべての宇宙が変化し、現象する町の情趣が、全く別の物になってしまった。つまり前に見た不思議の町は、磁石を反対に裏返した、宇宙の逆空間に実在したのであった。(中略)

このように一つの物が、視線の方角を換えることで、二つの別々の面を持ってること。同じ一つの現象が、その隠された「秘密の裏側」を持っているということほど、メタフィジックの神秘を包んだ問題はない。私は昔子供の時、壁にかけた額の絵を見て、いつも熱心に考え続けた。いったいこの額の景色の裏側には、どんな世界が秘密に隠されているのだろうと。私は幾度か額をはずし、油絵の裏側を覗いたりした。そしてこの子供の疑問は、大人になった今日でも、長く私の解きがたい謎になっている。

 ▶萩原朔太郎『猫町』(1935)

ゴーストバスターズ(行き止まり)

1.
「ばかな!」とほとんどの人は言う。
「自分が機械のように感じるなんて、とんでもない!」

しかし、自分が機械でないのなら、機械みたいな感じというのがどんな感じなのか、なぜ自分でよくわかるのだろうか。「わたしは考えることができる。だから心がどのようにはたらくか知っている」と答える人もいるかもしれない。しかし、この答は「わたしは車が運転できる。だから車のエンジンがどうはたらくか知っている」という言い方がおかしいのと同じように、正しい答とは思えない。何かをどう使うか知っていることは、それがどうはたらくか知っていることと同じではない。
(マーヴィン・ミンスキー『心の社会』)

この立体(図1)は、率直に言って何が不思議なのか?
それは、一枚の紙に、もう一枚の紙を垂直に貼ってつけたかのように見えるにもかかわらず、ひとつながりの一枚の紙だけでできている、という点にある。

この「不思議さ」によって、「それがどのようにできているのか?」という問いが生じる。わたしたちにとって、対象化しきれない「不思議さ」がないかぎり、「どのように」の問いは、問いとして問われることはない。


2.
まずここではあえて「それはどのようにできているのか?」を、つまり一枚の四角形の紙からどのような手を加えていけば図1の形態ができあがるのかを、記述してしまおう。

一枚の長方形の紙に三つの切り込みを入れる(図2)。三つの切り込みの先端は、三つともに、同じ一本の軸の上に位置している。次に、面aを垂直に折りたたせる。そして、面cは水平に固定したまま、軸線を使って面bを180度回転させる。

手品でいうところのタネ明かしとは、以上のようなものである。
しかしこの説明で、一瞥したときの「不思議さ」を解明したことになるだろうか。

注意すべきことは、
A:「それはなぜ不思議なのか?(=わたしたちはなにを不思議だと感じているのか?)」
B:「それはどのようにできているのか?」
という二つの問いのなかの、「それ」という代名詞が指し示す対象は、かならずしも一致するわけではない、ということである。
Aの「それ」は、わたしたちがなんらかのものを対象化するという行為自体が含まれているのに対し、Bの「それ」は、わたしたちの認識とは無関係に存在している。


3.
たとえば図3のような形態をみてみよう。これとわたしたちがいま問題にしているところの形態を比較すれば明らかなように、切り込みの数が異なるだけで、この二つの形態の仕組みは同じである。

ではなぜわたしたちは、図3の場合には何の不思議さも感じず、図1の場合には不思議に感じるのか。
図3は、全体が一枚の四角い紙からできているように見え、実際に一枚の紙でできている。「見え方」と「仕組みの了解」にずれがない。
対し図1では、全体が一枚の紙のみでできているようには見えず、にもかかわらず実際には一枚の紙でできている。


図1の立体は、一枚の紙のみでできているからといって、図4のようになっているわけではない。垂直に立っている面と水平な面にあるヴォイドが(面積としては等しいのに)一致していない。だがそもそも図1を「くり抜かれている」と錯覚するのは、図4の形態の成り立ちが念頭にあるからだ。もちろん図5のように、複数の紙を合わせているのかといえばそうでもない。しかし、一枚の別の紙にもう一枚の紙が貼られたように錯覚することがあるのは、この図5の形態を想定しているからだ。

つまり「一枚の紙でできているようには見えない」のは、わたしたちが暗黙に、図4や図5の形態の仕組みで図1を読み取ろうとしているためである。図3は立面からすぐに平面に遡行できるため、そのような読み取りは必要ない。そして図1の立体の場合、「見え方」が「仕組みの了解」にフェイント的に作用する。
図2で示した平面の状態で、表裏を区別するために一方に色を塗り、そのあと立面にすれば、どのように分節されているかが視覚的にわかる(図6)。また、図3を先に見て(それを補助線に)図1を見れば、何の不思議さも感じないだろう。


4.
「見え方」と「仕組みの了解」のギャップが「不思議さ」を生じさせる。「不思議さ」を基礎づけ、その前提となっている「不思議でなさ」がかならずある。「不思議でなさ」が「不思議さ」に引き寄せられはじめたら、しめたものである(トリックの射程とは、この引き寄せの度合いのことだろう)。
ただし「不思議でなさの不思議さ」には、問いがあるばかりで答えはないのだが。

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Tuesday, April 22, 2008

For Example vol.7


ジョン・バルダッサリ John Baldessari
《Horizontal Men》
1984
白黒写真、ボードに貼り付け
247×123.5cm

[実験の目的]
人物の体勢(対象の形態)によってしか、地面が位置づけられない状況を想定すること。

[実験の仮説]
存在することは所属することである。ある対象を認知するとき、われわれはそれが位置する空間もセットで捉えている。けれど一方で、死んだ者は位置を持たない。眠っている者の属する場は見えない。
少なくとも映像/画像においては、対象と背景、人物と地面の関係は絶対的ではない。地面は、フレーミングと人物の関係に規定される。先行する実験例として、例えばエドゥアール・マネ Edouard Manetの《死せる闘牛士/Le Torero Mort》(1864)、トリシャ・ブラウン Trisha Brownの《Primary Accumulation》(1972)などを参照すること。

[実験の方法]
素材の物質性は一切利用せずに、既存のイメージだけを使って物質的な抵抗感を作る。
複数の複製画像をコラージュする方針を採りつつ、構図上のバランスを優先するコンポジションや、異なるイメージ同士の衝突、文脈の組み換えである異化効果に留まらない編集操作を行なう。

1. 画像は地面に水平に横たわる人物像で、映画のスチール写真や報道写真をソースとする。死体、倒れている人物、寝ている人物、死体のふりをする人物、寝ているふりをする人物、と虚実を問わずに集める(ただし、すべて眼を閉じているか、顔が見えない角度であること)。
2. 収集した画像を、それぞれ(棺桶のなかにあるように)一人の全身がぴったり収まるよう矩形状にフレーミングしてカットする。各々のサイズの違いを調整して、同じ程度の大きさにする(縦は多少の差はあってもよいが、横はきっちり同じ長さにそろえること)。人物の背景はそのまま残し、個々の素材に対しては最小限の加工で済ませる。
3. コンポジションになるのを避けるため、これらを上から下に並べる「積み重ね」という、ごく単純なルールによって配置していく。類似した体勢の人物の反復によってできる連続性。下に向かうにしたがって徐々に長くなる縦の幅。これが観る者の視線を誘導する。
4. 配置の際は、各々の身体の体勢と顔の向き、そしてカメラ・アングル(上から見下ろし/下から見上げ/やや斜め/完全な平行など、どの角度から撮っているか)の微妙な偏差に注視する。最終的には計九つの横たわる人物像を選択し、仰向け/うつぶせ/上半身と下半身のねじれ具合などの異なるものを隣り同士にする。
5. また、一番下の画像のみ、もともとは垂直に立ち両腕を後方に向けている人物像を、左回りに45度傾けて使用する。この操作によって、他の画像より背景が広くなり、下方に余白ができる。本来、もっとも加重がかかるはずの最下部の人物が浮遊して見えるため、視線の流れと連動していた上から下への力のベクトルが宙吊りになり、脱臼される効果が生じる。

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